パロップのブログ

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モー娘史=ソ連史(長文注意)

自分は以前から「いつかモーニング娘の通史を書きたい」と公言しているが、公式ソースに拠りながら事務所の戦略を含めた「商品」としてのモー娘を書けるのは能地氏のようなインサイダーだろうし、メンバー個々の心情等を中心に据えつつ妄想含めた人間ドラマを描くならば、手売りの頃から雑誌やラジオの発言を収集しているその道のプロヲタがいるだろう。そのどちらでもない自分はオルタナティブな手段を取らざるを得ないので、全く別の分野に属する2つの物を組み合わせるという、あざとい技を出す。

  • ロックボーカリストオーディション(胎動)=1905年革命
  • 愛の種』(プロトタイプ)=二月革命(1917年)
  • モーニングコーヒー』でデビュー(本格スタート)=十月革命(同年)
  • 追加メンバー(混乱)=内戦(1918〜1922年)
  • 『サマナイ』でオリコン1位(一般化)=ネップ導入(1921年)
  • 明日香脱退(象徴的存在の喪失)=レーニンの死(1924年
  • ラブマのヒット(メジャー化)=五カ年計画のスタート(1928年
  • 石黒&市井脱退と4期加入(ニッチ路線へ)=トロツキー亡命(1929年)
  • 『I WISH』(古参ヲタ虐殺)=大粛清(古参ボリシェビキの抹殺)開始(1936年)
  • 2002年7月31日(新体制の完成)=スターリンの死(1953年)
  • 安倍卒業を発表(諦念)=フルシチョフ失脚(1964年)
  • ガッタスの開始(原理の喪失)=プラハの春弾圧とブレジネフドクトリン(1968年)
  • 矢口脱退(終わりの始まり)=ブレジネフ死去(1982年)
  • リボンの騎士』(再び一般化)=ペレストロイカ(1985年)

以下、こじつけのキモとなる箇所を説明する。
自分の歴史観では、2002年7月31日を始まりと捉えず、新システムの完成期とする。始まりは4期加入と『I WISH』。石黒&市井の脱退で、事務所は成果に執着しない若い女性をあてにしないことを学ぶ。また、メジャー性を放棄しても一般アーティストと競合しないニッチ路線を選択する。これはまさにスターリンの一国社会主義論とトロツキーの世界革命論の対立に重ねることが出来る。また、『I WISH』発売の前後に、外部レーベルから出ていたココナッツ娘。や平家さんをゼティマに回収し、内向きシステムの確立に走る。実力や努力や結果など不確定要素に左右されないシステムの完成こそ2002年7月31日。スターリンの死はまさに個人の指導に頼らない体制の始まり。
フルシチョフ失脚から始まったブレジネフ体制は約20年に及び、後に「停滞と腐敗の時代」と呼ばれるようになった。だが、ソ連崩壊後、貧富の差が激しくなった1990年代末期、ロシア人に「もっとも幸せだった時代はいつか」とのアンケートを行ったところ、ブレジネフ時代を挙げる人が多かったという。当時のヲタサイトを思い出すと、つんくによる「卒業おめでとう、イエイ!」とその後よみうりランドで行われた安倍さんソロデビューイベントによって、前年の再編から界隈を漂っていたモヤモヤ感が消えたというか、諦めから転化した「刹那的に今を楽しもう」という空気が生まれたような感じがした。また、新時代に乗り切れない者はヲタを辞めていった。ハロプロが完全に終了した暁には、2003年8月のハワイツアーから2005年4月の矢口脱退までの期間を、誰の目から見ても緩慢な死に向かっているのが分かりつつ、とりあえずCDとコンサートとメディア露出だけは絶え間なく供給された幸福な時代として語られることだろう。
それが単なる御題目だったのか、実を伴っていたのかは分からないが、モー娘の理念は、一つは「成長から衝突まで人間物語を見せる」、もう一つは「歌やダンスを魅せる」だったのだろうと思う。これに対して「魅力的な人間物語さえ提供すれば、歌やダンスが無くても銭がとれる」ことを明らかにしてしまったのがフットサルである。これを原点回帰とみるか、原理の喪失とみるかは難しいところだが、本体にとってのターニングポイントと位置づけることは可能だろう。ソ連でいえば、ハンガリー動乱(1956年)とプラハの春(1968年)のどちらでも構わない気もするが、年表的に当てはまるのは後者。
このネタを構想したのは今年始めで、まだ『リボンの騎士』ミュージカルは行われていなかったが、その一生懸命な練習風景等を見て、個人的にはある種の危惧を抱いていた。一般人へ見せるに値するものを商品とするためにちゃんと練習すれば、それなりに良いものが出来るけれど、それは同時にハロプロらしさを削ることに繋がるのではないのか。ゴルバチョフは死に行くソ連を救うためにペレストロイカを始めたが、市場経済複数政党を認めた社会主義って、要するに「それなら普通に西欧民主主義でいいじゃん」ということになるのは明らかで、実際、ソ連は消滅した。如何に機能してなかろうが、如何に疲弊していようが、国家を動かす指導原理・理念が特殊であればこそソ連の存在理由があったのに、それを捨てたら何が残るというのか。『リボンの騎士』に行ったヲタサイトの感想を読んだ限りでは、あながち外れてもいないだろう。
周回遅れの一般性を目指しているというピントのズレ具合はゴルバチョフアップフロントもよく似ている。そのズレ具合から推察するに、本格ミュージカルの次は、既に時代とズレまくっているレコード大賞を目指すのではないか。春先にそう危惧していたところに出てきたのが新曲『歩いてる』である。一般人が聞いてもひかない(寺田流フックのない)真っ当な歌詞に感動調なメロディ。これは近藤真彦における『愚か者』になるのではないか。「世間から低く見られてきた皆さんに名誉を授けますから、これで一丁上がりにしてくれませんか。シーンから退場して下さい」となるのではないか。全盛期に一度は決別したレコ大だが、賞レースの仕切り屋に頼めば、仲直り出来そうじゃないか。そういえば、宇津木@フットサルの起用を取り引き材料にしてエイベックスとは持ちつ持たれつの賞レース談合だって出来そうじゃないか。

まあ、こんなのはパズルゲームのようなもので、そもそもある事象が発生してから、ブームになって、衰退するまでの過程はどれも似ているものであるからして、何とでもこじつけることが出来る。ここまでが枕で、ここから「スターリン時代=黄金期」「当時のモーヲタテキサイ=粛清された芸術家」という本題に入るつもりだったが、材料が揃わないので、とりあえず「『歩いてる』がレコ大にノミネートされたら、モー娘。終了」という外れて欲しい予想を書いておく。