パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

中小路徹『ジーコスタイル』

朝日新聞社、2006年4月

先週末の旅行時に読み飛ばすこともなく読み終えた。別にワールドカップの結果がネタバレした後になって読んでジーコ信者を笑ってやろうというわけではなく、雑誌に掲載されていたジーコのインタビュー等はずっとスルーしていたので、手軽に4年間のチーム作りの思想を知りたいと思い、図書館で借りてみた。気になる箇所をいくつか取り上げてみる。

「現代サッカーはフォーメーションも系列化され、もう作戦だけでは勝てない。その中で勝敗を決めるのは個人の力だ。発想の力、技術。日本はそこを追求していくべきだ」
P.51

こういう発言は、フォーメーションも作戦もとことん追求した人が言うのならば分かるけど、そこをすっ飛ばして「発想の力と技術」を追求していたような印象がある。というか、ジーコは日本が他の強豪国と戦術面では並んだから、その先にある個性や創造性を引き出そうとしていたのだろうか。端からみると、フォーメーションや作戦ではかなわないけど、それを上回る創造性が日本人選手にはあるという信念からああいうチーム作りを選択したようにみえた。

「ミスを犯した時は注意しなければならない。なのに、日本ではミスを犯しても注意する選手がいない。ブラジルではミスをはっきりさせる。確かにミスの話は嫌だ。だが、みんながミスをする。明日は私が、君が、彼がミスをするだろう。人間は完璧じゃないからね。だからこそ、互いが言い続けて、同じミスを犯さないように努めるのだ。『それはミスだぞ。でも、次回はうまくいくよ。ただし、今のはひどいミスだ』と」
P.238

これはナカータと福西がピッチで論争を始めた場面に関するジーコの意見で、確かサイドのカバーを攻撃的MFが下がってくるのか、ボランチが中央を空けてフォローするのかという論争だった。つまり、仮にこれでサイドを崩されたら互いに「お前のミスだ」「いや、お前の方のミスだ」という事になる場面の論争なのに、いつの間にか「日本人は互いに指摘し合わないけど、ナカータ×福西みたいな事はブラジルでは茶飯事だ」という話にすり替わっている。
日本人がミスに関する議論をしても、どうもピンとこないものがあるが、とりあえず先へ進む。
http://sigmaclub.cocolog-nifty.com/sigmaclubblog/2006/09/post_237b.html
上の文章は広島のペトロビッチ監督が「ミス」について語ったもの。サッカーに正解はないかもしれないが、監督が描く理想のサッカーから逆算して「ミス」といえるプレーはあるかもしれない。それを決める事が出来るのは監督だけ。
情熱大陸』でオシム監督が、攻撃練習の際、1人の選手にボールの貰い方と貰った後に出すボールの種類について、厳しい指示を出す場面を見た記憶がある。その選手が自分のプレー選択理由を説明しようとしても、「俺の言う事を聞け」と有無を言わさぬ強い調子だった。「考えてプレーしろ」がトレードマークのオシム監督だが、たとえ本人が考えてプレーしたつもりでも「下手の考え休むに似たり」で、練習の意図を汲み取っていなければ、監督の意図を汲み取っていなければ「考えてない」になる。もしくは「自分で選択する」と「考えてプレーする」は同じではないという事か。
ドイツ合宿の報道映像で、怪我した加地さんの代役を言い渡された駒野が、ジーコとマンツーマンで「ボールを奪ったら、そのまま前へ行く」練習をしていた。「奪った後、顔を上げて考えるな」「スピードを緩めるな」等のダメ出しだったようだが、つまりはジーコにも「ダメなプレー」「選択してはいけないプレー」はあるし、練習中にそれを指摘する事もあったのに、では何故、ナカータ×福西論争は「選手同士で議論して、やり易い方法を見つけなさい」になるのか。この辺り、恐らくジーコのサッカー理論ではなくて、コーチング理論を知りたい。

「試合中に流れを変えるためのシステム変更はもちろん必要だと思う。ただ、DFとしては、3バックか4バックか、どちらかを熟成させてくれると助かる。誰が入っても同じスタイルなら、余計なことを考えないでできる」
P.247

ドイツ大会で一番気の毒だったのは中澤だろうか。想定レギュラーは中澤-宮本-田中だったのが、初戦・2戦目は中澤-宮本-坪井(途中から茂庭)、3戦目は中澤-坪井。固定メンバーで熟成させるわけでもなく、誰が入っても同じスタイルだったわけでもなく、こればっかりは本人がどんなに万全で臨んだところでどうにもならない事で、最初で最後のワールドカップと心に決めていただろう本人にとっては、色々悔いが残っているのではないかと想像してみるが、大会後にワールドカップに関する中澤のインタビューを読んでいない気がする。全部断っているのだろうか。確かフランス後の名波もそうだったと記憶しているが。

〈おまけ〉

1次リーグA組最終戦の中国-カタール戦後、アジア連盟(AFC)のペラパン会長がわざわざインタビュールームにきて…(以下略)
P.120

を読んだ時は、「この人もPeter Velappanをペラパンと間違えて覚えている馬鹿プロライターか」と思ったが、その後、

しかし、今度は、アジア連盟(AFC)が介入してきた。3日にピーター・ベラパン事務総長名で…(以下略)
P.151

と出てくるので、前者はケアレスミスか。それはそれで「中小路かな入力疑惑」や「中小路未だに手書き原稿で入稿疑惑」も浮かんでくるが、それはさておき、普通、初出はフルネーム記載で、2回目からはファミリーネームのみだと思うが、これは逆になっている。もう一つ重箱の隅をつつくとすれば、一度「アジア連盟(AFC)」と書いているならば、2回目からは「AFC」のみでよかろう。もう少しマシな文章が書けるように、ちゃんとした会社で勉強した方がいいよ。と思ったら、朝日新聞の記者かい! と嫌味を言って終わる。まあ最下層DTPオペの遠吠えだから、金持ち朝日さんは笑って許してくれるさ。「記者が悪いんじゃない。編集者と校正者が悪いんだ」とおっしゃるかもしれないし。だが、最近の新聞記者って、出待ちして選手等からコメントを貰う、企業のプレースリリースから一般人が興味持ちそうな箇所を抜き出してまとめる、それでも理解が難しい事象には専門家に解説を依頼する、等々ライターというよりはエディターな仕事だと思うのだが、新聞記者とは文字校正も出来ないエディターということか。