パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

日本代表強化私案

とりとめのない文章になってしまったが、4年に1回くらいはこうやって自分の立ち位置を確認するのも悪くないと思うので、ネタかジョークと思ってお許し願いたい。

まずはジーコに謝りたい。特に2004年春頃は、ずいぶんと皮肉めいた悪口を書いてしまった。自分でサッカーをプレーした事もない人間が、チーム作りの方法に関してずいぶんと偉そうな物言いをした。実はアジアカップ2004の後、謝罪文を書いたのだが、公開しないまま、今年5月くらいに時機を逸したと思って消去した。内容はいま書いていることとあまり変わらない。
確か2003年3月頃、はてなダイアリーのベータ版が出て、自サイトで日記を書くのが面倒になってきたところだったので乗り換えて、ちょうどサンフが2部落ちしたシーズンが開幕したので、何となくサンフウォッチ日記を書くようになった。ここ数年書いているうちに出来たマイルールは「監督批判はしない」。自分と監督の考えが違うからといって監督の批判はしない。まず、監督の立場になって想像を巡らせる。御用記者になる。それでも理解出来なければ、自分と監督の違いを記しておく。この辺りの基準を日本代表にも適用すれば良かったと今は思う。
なんていいながら、正直なところ、日本代表の試合は、2005年夏の東アジア選手権で駒野が招集されるまで、ネットしながら流し見するだけになっていたので、内容はよく判らない。ということで、アジアカップ以降は代表についてほとんど書かなかった。「見てない事には触れない」という原則はまあまあ守れたと思う。その後もワールドカップまで駒野と寿人が出てくる試合以外は流し見。まあ、段々とサンフに時間を奪われ、日本代表と海外サッカーに興味を失った4年間だったともいえる。
流石にワールドカップ3試合は真面目に見たが、感想としては、豪州戦を元気な加地さん、ピーマコ田中、俊輔を加えて戦わせてあげたかった。自分は基本的にトルシエ信者なので「短期決戦なんだから、主力が盲腸やエコノミー症候群になっても大丈夫なチーム作りをしておけよ」とい言いたい気持ちもあるのだが、それよりも何よりも監督がベストだと思うメンバーで臨めなかったから、ジーコの「同じ顔触れでずっとやれば、連携が深まるはず」というベストメンバー固定主義の正否が確認出来なかったのが残念だという気持ちの方が大きい。
ワールドカップ前、自分は駒野に関して「自分の持ち味を生かして」という事を望んでいたが、今にして思えば間違いだったような気がする。駒野は加地さんのプレーをビデオで100回見て、加地さんのコピーになった方が良かったかもしれない。このチームの場合、上がるタイミングにしろ、カバーリングにしろ、120%の駒野を披露するよりも、加地さんの模倣80%の方が意味があったかもしれない。その辺りも「ジーコのやり方はおかしい」と書くのではなく、「ジーコ理論に従えば、駒野はこうすべき」という方向で書くべきだったという後悔もある。

自分は「日本人の特徴を活かしたサッカーの実現」という意味で、ジーコに結構期待していた。個人的には、グループリーグ突破とかベスト8はどうでもよくて、世界のサッカー愛好家が「日本は世界の潮流とはずれたけったいなサッカーをしよるなあ」と言うようなサッカーをしてくれれば、3戦全敗でも構わなかった。WC94のモロッコとか、EURO96のトルコみたいな評価のされ方を期待していた。
たとえばフットボールという山があるとして、山頂に最も近いのは、とにかく登山技術が半端ないブラジル、次に最新の登山道具を開発するオランダ、身体能力を活かして強引に登り続けられるアフリカ勢等々…、みたいな想像をしてみる。その中で、登り方は様々なんだけど、とりあえず彼らは皆同じ登山道を縦に並んで進んでいる。これに対して、ジーコ日本は登山道を外れて獣道、薮の中を突き進む感じ。当然遭難の恐れもあるけれど、ものすごいショートカットで他国の前にワープする可能性もある。「フットボールネイションを見習え」「欧州トップモードを見習え」という評論家に対するアンチテーゼとしてジーコ式には期待していたのだが、少なくとも登山道を行くよりも薮の中を行く方法の優位性は示してくれなかったと思う。

欧州サッカーと日本のサッカーを比較して「ここがこう違うから日本はダメなんだ」という評論家は多々いるが、その「違い」は欠点なのか。そうではなく、その「違い」こそが「日本化」のヒントではないか。
よく来日した助っ人ブラジル人が「日本のサッカーは終始早過ぎるよ」と言うけど、そのせわしなさに適応出来なくて活躍出来ないまま帰国する一流ブラジル人だっているのだから、せわしなさそのものは日本サッカーの良さになる可能性を秘めているのかもしれない。ただ、せわしなさにミスが付随するだけで。ミスといえば、外国人監督は来日してすぐは「ミスを恐れるな」というが、この「ミスを恐れるなと言っても、ミスをして良いわけではない」という部分のニュアンスがなかなか日本人には伝わらない。「誰でもミスはするもの」と言っていたのが「大事な場面でベテラン選手がありえないミスをする。これ以上はクオリティの高い選手を獲得するしか強くならない」みたいな事を言うようになる。
西部謙司氏は「Jリーグを見れば日本人らしいサッカーは既に現れている(けれど「スタイル」はない)みたいな事を言っているし、ネット評論家の対談なんかを読むと「自分たちでやり方を決めた代表は結局Jリーグのサッカーをそのままやっていた」という事らしい。ルーマニアと親善試合をやった後、ムトゥは「日本は組織的なチームだった」みたいな事を言っていたし、多分何の命令もなくとも、ある程度日本人らしい動き方というのはプロになるまでに植え付けられているのではなかろうか。
中盤が日本の生命線だといっても、日本が参考にすべきといわれるメキシコにはボルヘッティマルケスがいるし、チェコはコラーがいないと中盤は機能しないし、チェフがいないと失点しまくるだろう。テクニカルな中盤が気持ちよく前を向くには電柱が必要だし、リスクを背負ったポゼッションをするには一定以上のサイズを持ったディフェンダーが必要になるということかもしれない。オシムもハースを呼び、ミリノビッチストヤノフを重用した。トルシエ時代に「10人の明神」というジョークがあったが、恐らく日本の行き着く先は「7人の明神と1本の電柱とサイズを持った2人のCB」というところではないだろうか。
多分、相手にボールを渡さないポゼッションジーコも、縦ポン協会サッカーも、オシムの「日本化」サッカーも、解決方法がそれぞれ違っただけで、出発点は同じような所だったのだろうと想像する。「せわしなさに付随するミス」「サイズの無さ」「中盤に前を向いてもらう方策が生命線」辺りか。10数年前、エメルソン・レオンはいろいろ批判を浴びながらも、優れたGKと優れた電柱を本国から獲得してそれなりの結果を残した記憶がある。
日本人チームと日本人チームが対戦するJリーグの場合と、日本人がスカウティングされて徹底的に弱点を狙われる国際試合では戦い方が違って当然。なので「Jリーグサッカーの総体=代表」ではいけないはず。個人的には優れた電柱は10年に2〜3本出てくれば御の字で、Jリーグのどこもが世界に目を向けて1チームに1本電柱を育てる必要はないと思う。
松田がいて、栗原がいて、河合がいて、中澤がいる。久保がいて、大島がいて、ハーフナーがいる。Jリーグでは並外れたサイドアタッカードゥトラがいる。サポーターは不本意かもしれないけど、Fマリノスは日本サッカー仕様の相手クラブが嫌がるようなごり押しサッカーを極めて「仮想国際試合」を毎週行えるチーム作りをして欲しかったと言ってみる。

「日本化」という言葉は恐らくメンタル面とフィジカル面の両面を指しているのだろう。メンタル面ならば90分間途切れることなく集中力が保つとか、集団作業を苦にしないとか、対戦相手を馬鹿にしないとか、フィジカル面ならばアジリティとか意外と中長距離のスタミナがある事とか。それから、その両面を混ぜた第3、第4の動きを考えながら連動して動く事が出来る(By小野剛)みたいなところだろう。
それにしても「日本化」「日本らしさ」なんて単語が飛び交っているのに、朝日新聞や『世界』辺りから何の違和感の表明も聞かないのは不思議な感じがする。彼らは「サポーターのナショナリズム」なんかにはあれだけうるさいのだから、「『日本人らしさ』なんてものはありません。個々の自分らしさがあり、それが集まった地球市民がいるだけです。大体、日本は単一民族ではありません」くらい言ってもおかしくないはずなのに。「スポーツにおいて体格に民族性が現れるのは当然の事だから差別でもないし、この件では右翼を叩かない」みたいな呑気な認識でいると、そのうち足元を救われるだろう。
日本代表のスタメンが、アレックス・サントス、アーリアジャスール、カレン、マルクス田中、ハーフナー、純マーカス、中尾真那になっても「日本化」を目指すべきなのだろうか。今ここで挙げた選手は、日本生まれ日本育ちで英語の成績は3だけど民族的には欧州系フィジカルを持っているとか、逆に日系3世だけど、試合中に「あのフォワード替えてよ」って言うくらいメンタリティがブラジル人とか、いろいろである。こういう選手の代表入りは、代表のアイデンティティとか応援する側のもやもや感情とか、そういう文化的・政治的な切り口ではなく、純粋にメンタル面&フィジカル面での「日本化」に真っ向から対立する事になるのではないか。

前置きはこのくらいにして、ようやく本題に入る。
女子テニス選手のヒンギスが1994〜96年頃、つまり14歳でプロデビューしてからナンバー1になるまでの数年間、ランキング的には格上ともいえない日本人選手に4度負けている。特定の誰かではなく4人に4度、ということで、当時記者から「日本人が苦手なのか?」という質問が出された。これに答えて曰く「日本人選手は勝敗に関係なく表情が変わらないからやり辛い」と。多分、西欧人にとって、苦しい状況なのに無表情だったりする日本人は不気味なんだろう。これは使える。ナカータみたく欧州ナイズされたり、湯浅健二氏みたく「サッカーは狩猟民族のスポーツ」なんていうのは、全く間違った発想だったのかもしれない。点を取っても無表情。点を取られても無表情。能面こそ「日本化」の第一歩である。
欧州トップリーグで活躍していると、顔馴染みの選手も出てきて「あいつ日本人も俺達と同じ人間さ」みたいな感情を持たれてしまうが、今のところ、そう活躍している選手もいないので「やべえ、こいつら人種が違うから何をやってくるのかわからねえ」と、相手の恐怖感を煽るにはもってこいの時期。ついでに選手を「カズ」とか「ヒデ」とか人間らしい愛称で呼ぶのも禁止。相手に人間としての共通項をみせてはいけない。代わりに「ショーグン」「ニンジャ」「ゴエモン」等々、聞きかじりの日本情報しか持っていない相手がびびりそうなニックネームを付ける。
まあ、テニスみたいな個人スポーツとサッカーのようなコミュニケーションスポーツを一緒にしてはいけないのだろうが、こちらは無言・無表情で意思の疎通が出来ているのに、相手方からは判らないという能面スタイルの研究は進めてもよいのではなかろうか。結構なアドバンテージになると思う。その姿を観て、スタンドのサポーターが共感・共振するかはまた別の話だが、とりあえず負ける度に「気持ちが伝わってこねえよ」などと文句を言う最近の風潮はどうなんだろう。勝つために最善の「能面サッカー」というオプションもあって良いと思うのだが。