パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

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「スペイン、イギリス、日本」
http://fayefaye-web.hp.infoseek.co.jp/hyouron039.html
解放された人質が記者会見を開いて一段落ついたようだし、後出しジャンケンには丁度良い頃という事で。
私はテレビニュースを見ないので、大体の情報はネットの受け売りだが、今回の件は人質家族の最初の記者会見が全てだったのではなかったろうか。それを見て「胡散臭い」と思って自作自演説に走った人、「可哀想」と思って政府批判に回った人は、その後はそれぞれ自説を補強してくれる材料を捜しただけ。何かを議論する接点すら何もなかった。事件自体は、人質当事者は家族に「自分のいない間に余計な事をするな」と怒り、家族は当事者に「心配をかけて」と怒り、内輪でお互いに「ごめんなさい」をし、最後に当事者と家族両者出席の上で「ご迷惑をおかけしました。今後は早く日常に戻って反政府活動を続けていきます」で一件落着だ。
テレビが与える印象という観点からいえば、家族の最初の会見をみて「これまで戦争反対、アンチ小泉だったけど転向した」という人、逆に会見とそれに呼応する政府の対応をみて「これまで国際貢献としての自衛隊派遣は仕方ないけど転向した」という人すら、それぞれほとんどいなかったのでは。結局、人は物事を信じたいようにしか信じない。
辻本氏もそうだったけど、市民派の人は何故あんなに素の自分に自信があるのだろうか。テレビの中では、政治家も評論家もスポーツ選手も芸人も一般人も「本当は素晴らしい性格」とか「本職では凄い実績」とか関係なく、「印象」というフラットな基準で批評されてしまう。20年近く前からナンシー関氏なんかはそう指摘しているのに、何故素で勝負しようとするのだろう。
特にネット右翼に叩かれていたのは若い角刈りの女性(と誰かの弟さん)だったと思うけど、メディアを使って愚民どもを手玉に取ろうと思っていたのならば、もっとテレビ受けする格好をすれば良いのに。きちんとテレビ映りを意識したメイクをし、ロングのカツラを被ってややフェミニンな服着て、ちょっぴり涙を流しながらも気丈に耐える風を演出するとか。出演が終わる毎に、契約した広告代理店と巷の反応をチェックし、次回に繋げる。出演が終わった後「ちょろいもんね」と舌を出したって別に構わない。
そもそも別に人質家族がテレビに出るなんて義務でもなんでもない。身内が事件に巻き込まれても「無事に帰ってきて、事件が解決する事を祈ります」というコメントを発表するだけの家族だって大勢いる。それを敢えてテレビに出るという事は、メディアを操って自分の意見を多数派側にする自信があるからだろう。にもかかわらず、テレビの特性を研究したりはせず、素の自分で勝負する。もしかするとテレビの仕組みを分かってはいるが、素を隠す事は自分のアイデンティティを否定する事につながると考えているのかもしれないが、自分の素を捨ててでも、結果が欲しくないのか。何故、折角テレビを通じて一般人に訴えられるのに、集会で直接会える仲間だけに通じるような言葉で語るのだろうか。
と、ここまで人質家族が「家族の心配よりも、自衛隊撤退という政治的要求を優先している風に見えた」という前提で問いを立ててみたが、よく考えると「本気で家族の心配をしていて、戦略なんて何も考えていなかったからああだった」という可能性もある。というか最初に「会見をみて素直に政府の対応を批判した人達もいるだろう」と書いている。しまった、論理が破綻している。よって終了。
蛇足だけど、確か『ダイ・ハード』(1作目)は、犯人グループのボスがIRAETAのテロリスト釈放を要求に掲げたのは目眩ましで、その間にオンライン口座から金を盗むのが本来の目的だったという話だったと思う。それによく似ていると思ったのだが、ググった限り誰も言及していない。10年以上前に見たきりだし、私の記憶違いか。