パロップのブログ

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『ブレア回顧録〈上〉』に関するメモ

ブレア回顧録 上・下2冊セット

ブレア回顧録 上・下2冊セット

まだ〈下〉は読んでいないけど(13日までに図書館へ返却! 無理!)、9.11以降のブレアにはそれほど興味がないから恐らくメモったりもしないだろう。

自分にとってのブレア時代は、独り暮らしを始めて、BSアンテナ付けて、特に予定もない文系学生のくせに毎朝ちゃんと起きてはNHK-BSの海外ニュースを見て、TVEやBBCでやってるアスナールやブレアの選挙戦ニュース3〜5分をVHSテープに撮り貯めていく。そんなモラトリアム時代の幸福な記憶と結びついている。オアシスとブラーが舌戦してて、EURO96があって、フェイウォンも呼ばれた香港返還特番が延々とあって、ウォン・カーウァイNHKの新春特番の為に3分くらいの新作撮ったり、そういうフワフワした空気の記憶と結びついている。レディダイアナの事故と自分の就職でフワフワの時代は終わったけど、自分の中にある第三の道とか社会民主主義へのゆるふわ肯定感は一生消えないだろうと思う。

実際に読むと、政治家の回顧録というよりかは、旧態依然の体質で潰れかけていた老舗企業(労働党)に乗り込み、まず社内ルールの改革(国有化条項の削除)を行い、次に開発した新商品(マニフェスト)が大人気を博した、そういう成功を収めた若手CEOのビジネス指南書のような雰囲気。

本書のハイライトは、ブレアが党首指名を競うゴードン・ブラウンに引導を渡す箇所。ブレアはとにかくリア充。首相になる前からイメージ先行と言われたが(自分も友人と「ブレアの笑顔は悪魔の笑顔♪」とからかって遊んでた)、マンデルソンやキャンベルのようなスピンドクター(情報操作屋)によって作られた張りぼてというレッテルを貼り続ける批判者に対するリア充ブレアの反論:

人々が私にこう言うようなものだ。「ああそう、あれこれ言ってるね。だがあの人たちは何も信じちゃいない。ただコミュニケーションがうまいだけだよ」。政治に関する発言として、これは矛盾語法に近い。(中略)こちらがしていることに同意するかしないかはともかく、人々にはそれを信じているかいないかが分かるのだ。もし政治家として核心的な信念がなければ、確信によって育まれた道を探り出す本物の直観がなければ、決してコミュニケーション上手にはなり得ない。なぜなら最上のコミュニケーションは心から来るものだからだ。
pp.149-150

頭が切れて経済政策通だけど人間的魅力に乏しいキモヲタブラウンが「ぐぬぬ…」ってなるのが面白い。キモヲタはよく言うよね「(あいつは)ただコミュニケーションがうまいだけ」、でもそれってすごい難易度が高い能力じゃん、という話。日本の就活界隈だとその実態の無さ故に胡散臭い概念筆頭として扱われる所謂「コミュ力」だけど、ブレアによると「四方八方から意見を拝聴して熟議して合意形成を目指して結局結論を先送りする奴はダメ。リスクがあると分かってても決断出来る奴がリーダーになるべき。そう出来るのがリア充で、そう振る舞うために必要なのがコミュ力」てな感じ。行動や成果と切り離して書いていることだけで判断すると、ブレアの思考は現大阪市長にすごく似ている。

政権交代について:

質問には平明かつ明確に答えることができなくてはならない。条件や言い訳があったとしても、答えはいつも包括的なものでなければならない。質問にどう答えるかは自分が何者であるかを明らかにし、たんに個人的な性格だけでなく、政治的な性格にもなるからである。これには思考と、詳細な分析と、知的な厳密さがいる。政治は一般に思われているよりもはるかに知的な仕事である。求められているのが単純さだとしたら、詳細は不要だろうと思うかもしれないが、間違いである。単純さは皮相な分析から生まれるものではない。徹底的な作業の産物であるからこそ、単純になり得るのだ。
長期にわたる野党暮らしのあいだ、毎日、毎週、毎月がなにか新しいもの、興味をそそるもので満ちていなくてはならなかったとき、私がゴードンほか多くの政策構想者とこれらの問題に取り組んだ作業が実を結んだのは、ここにおいてだった。すべての分野での統治の原則を把握するため、問題を掘り下げ、細かい作業をし、繰り返し、さらに繰り返した。
pp.177-178

総選挙で勝利する前の数年間、われわれは懸命に努力していた。追い風が吹いていた。野党としての制約や限界はあったものの、われわれは最大限の準備をしていた。とはいえ、こうした制約と限界は相当不利に働くという結論に私は至った。政権に足を踏み入れ、統治するのに必要とされることが、情けないくらいに足りていなかった。長年にわたる野党暮らしのあとに政権をとるとなると、なおさらだ。これは政府の仕組みを理解していないということではなく、なによりも政策づくりの複雑さ、財政運営、優先順位のつけ方を知らなかった。委員会の構造、各省が運営される大小の道筋を知ることの重要性は疑うべくもない。しかしはるかに重要なのは、マニフェストに書くときは至極簡単だが、現実の厳しい光に照らしてみると実行が恐ろしく困難な政策に備えて、基本的なこまごましたことにどう焦点をあてるかである。そして政党というものは、あれこれの公約が財政とどうかかわり合うのか、その本質について情報不足になりがちなのである。
pp.195-196

普段は「これだからイギリスと比べて日本は〜」という出羽の守にならないよう心掛けているつもりだが、日本の民主党が野党時代にどれだけ下地を磨いていたのか、どれだけ磨いても実務経験の無さという弱点を自覚していたか、比較して溜息をついてしまうところは否めない。単純に答えるためにこそ"思考と詳細な分析と知的な厳密さがいる"はずで、考えてないわけではないし、自民党政権とは違ったある種の誠実さがあるのも分かるけど、単純に考えて単純に答えている、来た球を打ち返しているように見えるのが日本民主党。シンプルさが誠実さだと思っている節がある。

私が政策綱領を提示し、その中身は信頼感を得るのに十分でありながら、詳細は伏せて反対者からの攻撃を防ぐものにした。
p.50

こういう「表面上は良い事ばかり並べているけど、深く突っ込んだら薄っぺらの空っぽなんだろ?」という批判者の鼻を明かすスタイルというのは、戦略的な面もあるだろうけどそれ以上に美学なんだろうと思う。政治に対する美学。日本民主党になかったもの。山口二郎氏が見抜けなかったもの、求めなかったもの。

ブレアが旧来の労働党幹部・労働組合幹部と違ったところは、貧しくとも誇り高くなんて理想だけど嘘っぱちだよ、労働者階級だって実際はみんな中産階級になりたいんだよ、そういう欲望は肯定すべきだよ。と言った事。それは労働者階級に生まれて労働党支持者だったが、経済的に成功し生活水準が上昇したら保守党に鞍替えした父の影響らしい。

私は成功を疎ましく思うことはなかった。そしてこのような態度は、進歩的な政治家にとっては総じてよいことなのである。個人としてもそれに賛同だった。いい家をほしいと思わなかったか? ほしいと思った。二つ星より五つ星ホテルのほうを好まなかったか? 好んだ。豊かなほうが生活に多くをもたらすと思わなかったか? 思った。人生の楽しみを享受することが、それが不可能な人の悲惨さに対する無関心に通じるとは決して考えなかった。私にとっては、その反対が真実だった。自分がほしいと思うものは、他者にとっても望むものであってほしいと思った。しかしながら、それをほしいと思うこと自体が間違いだとは感じなかった。
p.210

本来なら当たり前の水準以下でも我慢できる人たちがいるにはいたが、まさにこの中産階級的心理を共有したからこそ、われわれに投票してくれた多数のニューレーバー支持者がいたのである。だからといって、“労働者階級”の人たちの望みが小さいという意味ではない。反対に、“労働者階級”と引用符に入れられるという事実が、何かを示唆していると私は感じる。上昇志向の労働者階級は中産階級になりたいと強く望んでいるのである。
これはすべて同じところに帰着する。ほとんどの人は自分自身と家族のために成功したいと思う。そのことに後ろめたさを感じないし、感じるべきでもない。他人がそのような望みをもち成功することを妬ましく思ってはならないし、むしろ自分よりも運が悪く、うまくいっていない人たちが成功するように助けることを義務と心得るべきだ。
p.431

基本、サッチャーと親和性が高いなと思った。それが選挙で勝つための方便ではなく、出自に根差した本音だったところにブレアが勝利した要因があり、身内の労働党からも批判された原因がある。

コソボ空爆を正当化する論理:

イスラエル人を率いたモーゼのように、目的地がはっきりせず、障害物が巨大で見慣れないような方向に切り拓くことは非常に困難を伴う。ついてくる者のなかにリーダーを裏切り者だと言って非難する者がいるときはとりわけそうだ。このようなときには最善の政治的リーダーシップを発揮させるような特質が必要になるのである。すなわち、善を成し遂げようとする欲求である。
p.323

この「善を成し遂げようとする欲求」こそがイラク侵攻の元でもあるわけで、ブレア大好き人間といえ、そのプロテスタント的倫理には敬意は払えども素直には乗っかれない。

余談だが、コソボ難民がマケドニアになだれ込んでいた頃:

難民は増え続け、攻撃目標は縮小していた。マケドニアの首相はパディを通じて私にメッセージを伝えてきた。「わが国民は、NATOには計画があるのに、その計画を知らされていないと脅えています。私はNATOにはまだ計画がないことを知っているので、もっと脅えています」
p.384

こんな緊迫した場面でもアネクドートを言う面白キャラとして描くのは、バルカン政治家に対する偏見を助長するので断固抗議したいところだが、これがブレアの創作ではなく実際に言いそうな気がしないでもないのがバルカンの恐ろしさ。

おまけで、ジョン・プレスコット副首相が卵を投げてきた有権者と殴り合いのケンカをした件を収拾しようと:

私は最後に言った。「ジョンはジョンだ。それ以上言えることはない」。それはエリック・カントナ的なアプローチだった。非常に謎めいたことを言って、人々を煙に巻いてしまうのだ。それが私の言ったことだった。「『ジョンはジョンだ』とはどういう意味なの?」皆は言った。私は肩を大げさにすぼめて言った。「ジョンはジョンという意味だよ」
p.506

政治家がサッカーをネタにジョークを言い、それが注釈抜きに意図が伝わるくらいサッカー文化が根付いた国は良いねってことで締めよう。