パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

不屈館(瀬長亀次郎と民衆資料)の感想

f:id:palop:20190907004432j:plain

私のタイムラインのドキュメンタリークラスタが「カメジロー!カメジロー!」と賑やかだったので、沖縄旅行へ来たついでに那覇市にある『不屈館(瀬長亀次郎と民衆資料)』という瀬長の資料館を訪ねてみた。その感想を書いておく。2本とも未見であるカメジロー映画にケチをつけるというひどい文章になっているが、映画の公式サイトを観察した結果であり、大外しの推測はしてないつもり。そして資料館の方はすごく興味深い資料がたくさん展示してあるので、是非行ってみてください。

一言で言うと、20世紀半ばには確かに存在した共産主義民族主義を兼ね備えた英雄を21世紀に描くのはなかなか難しいよね。

瀬長の事はそれこそカメジロー映画の番宣でしか知らなかったので、資料を見てびっくりしたんだけど、実際のところ瀬長は筋金入りの共産主義者なんよ。21世紀の価値観を含んだ悪口としての共産主義者ではなく、事実としての共産主義者。そして資料館では何を隠すこともなく堂々とそう書いてある。そりゃあ事実なんだもん。だけど私が見た限りドキュメンタリー映画の番宣では、そこはたぶん意図的に隠されている。米国の占領政策に抵抗した愛国者(愛郷者?)という描き方になっている。

瀬長は戦前の1932年に治安維持法で逮捕された筋金入りの(大衆による悪口としての)“アカ”なんよ。戦後は1947年に沖縄人民党を立ち上げる(何故ってアカだから)、1950年は知事選で大敗する(何故ってアカだから)、その後立法院議員になって労働法制に尽力する(何故ってアカだから)。ところが1954年に占領軍に喧嘩を売って逮捕されて1年半の牢屋暮らし…からの1956年12月那覇市長に当選…とここで瀬長は大衆が取っ付き難いアカから米軍占領政策に抵抗する民族英雄にジョブチェンジするわけです。もちろん断っておくと、瀬長本人のなかでは恐らくジョブチェンジしてない。基地で働く沖縄人民の労働条件をめぐって闘い、周辺で暮らす人民の生活条件を守るために占領軍と闘うことは通底しているわけだけど、民衆から見た役割演技としてはアカから民族英雄にジョブチェンジする。

鳥山淳「復興の行方と沖縄群島知事選挙」(『一橋論叢』第125巻第2号、2001年)によると、1950年の沖縄群島知事選の獲得票数は、平良158520票、松岡69595票、瀬長14081票。都市部の労働者に少し名が知られていただけの泡沫も泡沫の“アカ”候補者よのう。鳥山論文をちらちら読むと面白いな。米国政府が沖縄を恒久的に保持する事に決めて本腰を入れて復興を始めて、労働力の確保のため軍作業賃金が約3倍に引き上げられた結果、離農者が続出して農地は荒廃したって書いてある。そりゃあ共産主義者なんて農村票が獲れるわけがない。

資料館にある那覇市長選辺りの選挙公報資料を見ると「島内の反動勢力が占領軍と結びついて我々を共産主義者だと誹謗中傷しているが、負けてはならない!」みたいな文言が書いてあった。まあ中傷じゃなくて事実じゃんと言いたいところでもあるが、左右の対立が厳しかった頃。オール沖縄ではなかった頃。保守反動とか言わなくなったよね。そういう時代の空気。

1960年に祖国復帰協議会の結成に尽力した頃からは完全に民族主義者よね。1970年に行われた沖縄初の衆議院選挙からは7期連続議員になっているけど、沖縄全県区(定数5)で行われた7回の選挙結果をみると、自民党2、日本社会党1、沖縄大衆社会党or公明党1、瀬長枠1(1973年に沖縄人民党日本共産党に合流)という感じ。返還前後の沖縄が置かれた状況を想像すると、今の香港みたいだなと思うかもしれないが、実際はドキュメンタリー作家の新田義貴が書いたようにスコットランドに近いものだろうか。植民地において民族主義政党は人民の福利厚生に心を割く左翼政党でもある。だからといって後の歴史家が、彼らを反植民地主義を叫ぶ民族主義政党のように描き、ソ連共産主義もなかったように描くのは断じて欺瞞である。

1960年といえば、いわゆる「アフリカの年」。冷戦期の植民地にとって、共産主義者民族主義者とは両立するものである。恥ずかしながら私はアフリカの近現代史に無知なので、アフリカ諸国の独立といえばモスクワ留学帰りの独立運動指導者が独立後はソ連型計画経済を実施して汚職や腐敗でオオコケしたというイメージなんだけど、もちろんアフリカには50前後の独立国があるわけで、英仏に留学して英仏に抵抗した指導者もいるだろうし、国家経営がうまく軌道に乗った国もあるだろうし、金太郎飴のように見てはいけないのは当然。ただあの時代の民族自立を冷戦史のなかでちゃんと位置付けないといけない気もする。私が読んだ学校の歴史教科書は80年代までだけど、その後は単に「ソ連は崩壊しました」だけ加筆するのではなく、1945~1989年の世界史叙述も本来なら全て読み替えないといけないはずでは、という話。

「もし70年代になっても80年代になっても沖縄が日本に返還されず占領地だったら」とイフの歴史を考えたとき、歴史的な共時性という意味では、瀬長はANCのマンデラになっていたかもしれないし、PKKのオジャランになっていたかもしれない。そういう想像もできるだろう。武器をとったかは分からんけどね。余談だが、この手のリーダーは学者か弁護士のような知識人階級か、逆に無学だけどやたら演説が人の心を打つ叩き上げの労働者階級だったりが多い印象だけど、瀬長は新聞記者なのよね。ちょっと意外で面白い。

だから21世紀も20年が経とうという現在に、瀬長亀次郎(1907~2001年)のドキュメンタリー映画を作ろうとしたら、「1956年はフルシチョフスターリン批判(2月)に始まり、日ソ共同宣言(10月19日)をめぐっては北方領土返還と沖縄・小笠原返還を関連付けた「ダレスの恫喝」もあり、そしてハンガリー動乱(10月)ときて、12月の那覇市長選では米国に喧嘩売って刑務所に入っていた筋金入りの共産主義者が当選!」というくらいの国際環境を視野に入れた描き方が欲しいよね、という事が言いたいわけですよ。日本共産党武装闘争路線を放棄したのは1955年7月ですよ。そういう時代ですよ。

※これはまあ、いま私が石田博英にハマってて1956年の北方領土返還交渉にも興味があるので、過剰反応しているのかもしれない。そこは認める。

資料館で見せてもらった約30分の映像(佐古ディレクターによるTVドキュメンタリー『報道の魂SP』「米軍が最も恐れた男」2016年)には、あの頃には珍しく進歩的な男女平等主義者だったというエピソードが描かれていたのだけれど、これも60年代第2波フェミニズムを通過した西欧風男女平等じゃなくて、普通にソ連を模した男も女も平等に労働力だよっていう男女平等よね。と書いたらまた価値判断としてのソ連の悪口を言っているみたいに思われそうだけど、そうじゃなくて事実としてのソ連の男女平等だから。もちろん、表では社会主義共産主義だと言いながら、家に帰ったら家父長制バリバリのおっさんがたくさん居た頃だろうから、言行一致しているだけ立派じゃんという話ではあるんだけど、コンテクストとして瀬長を西欧風開明紳士みたいに扱うのはどうなん?という話。まあ、こういう面倒くささがある事も含めて、みんな冷戦とソ連の存在を抹消したがるんよね。

余談。ここまで長々と、なるべくオーソドックスに事実ベースの話を書いてきたわけだが、事実ベースでない話をすると、当時の国際環境からして瀬長はソ連共産党から資金提供を受けていたかもしれないね。ここも勘違いしてもらいたくないのは、私はソ連から資金提供を受けていたと中傷したわけでも、仮に受けていたとしても非難したいわけではないよ。それは恥ずかしい事でも隠すべきタブーでもないよ。冷戦期ってそういう時代だったんだから。岸信介がCIAから資金援助受けててもいいじゃん、日本社会党ソ連共産党から資金援助受けててもいいじゃん。だけど、なかったことにはするなよ。ちゃんと関係者は書き残しておけよ。「墓場まで持っていく話」とか言ってんじゃねえよ。歴史に対する責任を果たせよ。ソ連共産主義がなかったような20世紀の歴史を書いてんじゃねえよ。そんな感じ。

うーん、50年代から60年代にかけてリアルタイムで瀬長が共産主義者から民族主義者にジョブチェンジした話(もちろん瀬長自身には一貫性がある)と、映画というメディアにおいて1998年から2018年にかけて瀬長の解釈のされ方がチェンジした話がクロスして分かりにくい説明になってしまったね。そこはごめんなさい。

1974年生まれの私は、親米保守が国是になっちゃった日本しか知らないので過去の空気感がわからないのだけれど、おそらく1950年代だと日本と沖縄とで反米度の温度差はあまりなかったのではないか。そこから1972年の沖縄返還、1995年の反基地運動と、どんどん米国に対する温度差が広がっていく。広がるにつれて、瀬長は共産主義者から民族主義者に描き方が変わっていったのではないか。瀬長の伝記的事実は変わっていないのに、世の中の受け取り方が変わった。そういう話。反米保守の小林よしのりが『沖縄論』(小学館、2005年)で瀬長について触れているらしいことをどこかで読んだのだけど、象徴的な気がした。

この文章を書くために検索して仕入れたネタなんだけど、佐次田勉『沖縄の青春―米軍と瀬長亀次郎』(かもがわ出版、1998年)の方は(アマゾンレビューをみた限り)バリバリの共産主義者物語になっているみたい。これを受けて二番煎じの佐古ディレクターは21世紀にウケる物語として民族主義者的描き方にしたのなら、まあ理解できる。

まとめ:⑴カメジロー映画は共産主義者である民族主義者である瀬長の民族主義者である側面しか宣伝してないよね、⑵それは佐古監督が悪いというよりかは時代の2つの要請だよね、⑶2つの要請のうちの1つは、単純にソ連崩壊以降は共産主義者は悪口になって描きにくくなったよね(でも恐らく1998年ではまだそうでもなかった)、⑷もう1つは、瀬長が活躍していた50年代60年代は日本人と沖縄人とで米国に対する感情は近かっただろうけど、特に1995年以降は別々の感情を抱くようになったよね(労働者・共産主義者としての反米アイデンティティよりも沖縄民族主義者としての反米アイデンティティの方が観客にとって違和感がなくなった)

ここまで書いて、佐古ディレクターの映画がバリバリ共産主義者としての瀬長をちゃんと描いていたり、あるいは逆に佐古Dから「230冊を超える瀬長の日記を全部読んだけどソ連の話なんてひとつも出てきませんでした。目の前の沖縄大衆の話ばかりでした」と反証されたら、素直にごめんなさいします。

おしまい!

 

「米軍が恐れた不屈の男」瀬長亀次郎の生涯

「米軍が恐れた不屈の男」瀬長亀次郎の生涯

 
米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー~ [DVD]

米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー~ [DVD]

 

NHKドキュメンタリー・緊急被ばく医療

2019年3月に放送された 『ETV特集』「誰が命を救うのか 医師たちの原発事故」及び同じ制作班による『BS1スペシャル』「緊急被ばく医療の闘い 誰が命を救うのか」の評判が良く、もちろんそれに異論はないのだけれど、ほぼその2年前の2017年2月にNHK総合で放送された『明日へ』「証言記録・第61回・福島県 見えない恐怖の中で~緊急被ばく医療の闘い~」もなかなかのものだったので、そこは先駆者の功績もちゃんと評価してあげたいというのが、このエントリーの目的です。

※カッコ内の肩書は当時だったり現在だったりいい加減ですが気にしないでください。

 

GTV『明日へ』「証言記録 第61回 福島県 見えない恐怖の中で~緊急被ばく医療の闘い~」

2017/2/26初回放送、43分、撮影:長谷川哲也、ディレクター:野澤敏樹、プロデューサー:丸山雄也、制作統括:松尾雅隆/佐藤謙治、制作協力:駿、制作:NHKエンタープライズ、制作・著作:NHK

インタビュイー(GTV版)

長谷川有史(福島県立医科大学救命救急センター

田勢長一郎(福島県立医科大学救命救急センター・DMAT受け入れ側)

鈴木敏和(放射線医学総合研究所緊急被ばく医療研究センター・オフサイトセンター着)

重富秀一(双葉厚生病院)

廣橋伸之(広島大学病院・救急医)

谷川功一(広島大学緊急被ばく医療推進センター→現在、福島県医大

近藤久禎(厚生労働省DMAT事務局)

熊谷敦史(長崎大学国際ヒバクシャ医療センター)

 

 『ETV特集』「誰が命を救うのか 医師たちの原発事故」

2019/3/9初回放送、60分、資料提供:福島県立医科大学放射線医学総合研究所広島大学長崎大学杏林大学福井大学/DMAT事務局/東京消防庁陸上自衛隊/双葉厚生病院/福島赤十字病院日本赤十字社福島県支部福井県立病院/双葉地方広域市町村圏組合消防本部/高野甲子雄、撮影:佐藤努、ディレクター:鍋島塑峰、制作統括:矢吹寿秀/宮本康宏、制作・著作:NHK福島

インタビュイー(ETV版)

福島芳子(放射線医学総合研究所

廣橋伸之(広島大学DMAT・医師)

重富秀一(双葉厚生病院・院長)

谷川攻一(広島大学・医師→現在、福島県医大副理事長)

細井義夫(広島大学・医師→現在、東北大学大学院)

立﨑英夫(放医研・医師)

鈴木元(原子力安全委員会の調査員・医師)

「医療支援にかけつけた医師」のテロップのみ(BS1版をみると竹村真生子)

長谷川有史(福島県立医科大学・医師・救急外来リーダー)

熊谷敦史(長崎大学・医師→現在、福島県医大

山口芳裕(杏林大学・医師・東京消防庁特殊災害支援アドバイザー)

 

BS1スペシャル』「緊急被ばく医療の闘い 誰が命を救うのか」

2019/3/10初回放送、50分×2、資料提供:福島県立医科大学放射線医学総合研究所広島大学長崎大学杏林大学福井大学/DMAT事務局/東京消防庁陸上自衛隊/双葉厚生病院/福島赤十字病院日本赤十字社福島県支部福井県立病院/双葉地方広域市町村圏組合消防本部/高野甲子雄/立﨑英夫、撮影:佐藤努、ディレクター:鍋島塑峰、制作統括:宮本康宏/矢吹寿秀、制作・著作:NHK福島

インタビュイー(BS1版)

福島芳子(放射線医学総合研究所・オフサイトセンター医療班)

廣橋伸之(広島大学DMAT・医師)

近藤久禎(厚生労働省DMAT事務局・医師)

重富秀一(双葉厚生病院・院長)

谷川攻一(広島大学・医師→現在、福島県医大副理事長)

細井義夫(広島大学・医師→現在、東北大学大学院)

立﨑英夫(放医研・医師・オフサイトセンター医療班)

鈴木元(原子力安全委員会緊急事態応急対策調査員・医師)

竹村真生子(県立南会津病院・医師)

長谷川有史(福島県立医科大学・医師・救急外来リーダー)

熊谷敦史(長崎大学・医師→現在、福島県医大

山口芳裕(杏林大学・医師・東京消防庁特殊災害支援アドバイザー)

 

※谷川先生の名前は科研費のページでチェックすると攻一が正しいはずで、2017年版の功一は間違いだと思うが、画数等のゲンを担いで改名した可能性もないではない。

 

話を聞いている顔ぶれは、2017年版も2019年版もほとんど一緒よね。2017年版ではリーダーの谷川先生にだけ聞いていたけど、2019年版では同僚の細井先生にも聞いているくらい。DMATの話は2017年版の方が詳しかった。

あとは、放医研からオフサイトセンターに派遣された人へのインタビュイーが違うくらい。2019年版の福島先生のシーンで出てくるホワイトボードに書いてある「鈴木(放医研)」は2017年版に出てくる鈴木敏和先生よね、多分。地震発生直後、放医研から福島先生が先遣隊としてオフサイトセンターに行って受け入れ準備して、その後に鈴木敏先生が到着した感じか。2つのバージョンを組み合わせて謎解き。

f:id:palop:20190731120029p:plain

f:id:palop:20190731120056p:plain

ゴールデン・ローズ・シナゴーグ跡(リヴィウ)

2018-10-18撮影

f:id:palop:20190727232533j:plain
ガイドブックによれば第2次世界大戦中に破壊されたシナゴーグの跡しか残っていないという話だったが、着いてみるとリヴィウに縁のあるユダヤ系偉人の言葉が刻まれた石板が並んでいたので、とりあえず文字が読めるように1枚ずつ撮影してみたものの、グーグル先生の力で世界中のインターネットをチェックしても類似の画像を見かけないので、もしかするとマナー違反/冒涜なのかもしれないが、怒られるまでネットの海に上げておこう(研究者共同体に属してなかったり現地の友人がいなかったりすると、知らずに禁忌を破ってしまいそうなのが辛いね)。基本は英語/ウクライナ語/ヘブライ語イディッシュ語かも)の3カ国語表記だが、もう1言語(イディッシュ語ラテン文字表記なのかな?)載っている板もあった。本当は英文を文字起こしまでしてみようかと思っていたが、そうすると世界中から見つけられる可能性が高まるし、何より今は画像を読みこんだだけで文字を抜けるアプリとかあるらしいので、その辺りは各自頑張ってもらおう。石板と石板の間隔が狭くて撮影は大変だった。どれを撮ったか分からなくなるし。一応網羅したつもりだが。

f:id:palop:20190727232608j:plain
ちなみに撮影している時、3歳くらいの男の子が石板に上って遊び始めて「まあ、まだ文字も読めないし、板の並びって遊具みたいだもんね」と微笑ましく見ていたら、お父さんらしき人がものすごい勢いでとんできて、ものすごい大声で叱って、ものすごい勢いで連れ去っていった。個人的には「子供には分からないんだから別にいいじゃん」と思ったけれど、ああいうのはやはり天で見ている神に悪いという感覚なのか、世間の目があるから体裁が悪いという感覚なのか、どっちなのだろうか。

f:id:palop:20190727232700j:plain
Shmuel Yosef Agnon(1888-1970):日本版ウィキペディアもあるノーベル文学賞受賞著名人。本名Shmuel Yosef Czaczkes。生まれはBuczacz、1908年にパレスチナへ移住。リヴィウとは関連なさそう。

f:id:palop:20190727232733j:plain
Leszek Allerhand(1931-2018):ポーランド語版ウィキペディアもある著名人。リヴィウのゲットーに入れられたが、両親と脱出して終戦まで隠れていた。戦後はポーランドに追放されて医者になる。

f:id:palop:20190727232811j:plain
Milo Anstadt(1920-2011):本名Samuel Marek "Milo" Anstadt。リヴィウに生まれ、10歳でオランダに移民、アムステルダムで隠れ家生活。ジャーナリストになる。

f:id:palop:20190727232842j:plain
Israel Ashendorf(1909-1956):I. L. Peretz賞に輝くイディッシュ語作家。Ізраeль Ашендорфで検索すると、ロシア語版ウィキペディアがヒットした。1946〜68年までポーランドで発行されたイディッシュ語文芸誌の編集委員をしていたらしい。戦後活躍した人についてはキリル文字が読めないときつい。

f:id:palop:20190727232914j:plain
Majer Balaban(1877-1942):英語版ウィキペディアがあるスター歴史家。Meir BalabanともMajer Samuel Bałabanとも表記。リヴィウ生まれ、リヴィウ大学を出た後は、クラクフポズナニ、ベルリン、グダンスク、ルブリンと様々な場所でユダヤ人の歴史を研究、ワルシャワゲットーで死亡。

f:id:palop:20190727232949j:plain

Martin Buber(1878-1965):日本版ウィキペディアもある言わずとしれた著名人。生まれはウィーン、リヴィウにいたのは1892〜96年のみのよう。

f:id:palop:20190727233021j:plain
Wiktor Chajes(1875-1940?):ポーランド語版ウィキペディアを持つリヴィウの名士。リヴィウ生まれ、ポーランドに同化したユダヤ人。グーグル翻訳だと市議会評議員とか副市長とか出るけど、正式な肩書は不明。ソ連のNKWDに連行されて殺されたので、厳密にいえばホロコーストの犠牲者ではない?

f:id:palop:20190727233055j:plain
Ignacy Chiger:リヴィウの下水道に隠れてホロコーストを生き延びた一家の父らしい。アニエスカ・ホランド監督『ソハの地下水道』のモデルとか。『Świat w mroku』(暗闇の世界)というポーランド語のサバイバル記を出版している。

f:id:palop:20190727233129j:plain
Marten Feller(1933-2004):Мартен Феллерで検索したら、ウクライナ語版ウィキペディアにМартен Давидович Феллерという言語学者が出てきた。Drohobych生まれ。キエフユダヤ教研究所の人らしいが、あまり有名人ではなさそう。

f:id:palop:20190727233158j:plain
Alexander Granach(1893-1945):英語版どころか日本版ウィキペディアもあるドイツの俳優。本名Jessaja Gronach。Verbivtsiという小さな町で生まれ、リヴィウに出てきて、1906年にウィーン、ベルリン、ソ連を経て、1938年に米国へ渡って死亡。

f:id:palop:20190727233235j:plain
Janina Hescheles-Altman(1931-):英語版ウィキペディアもある著名人。旧姓Hescheles。父Henryk Hescheles、叔父Marian Hemarも著名人、Stanisław Herman Lemも親戚。リヴィウ生まれ、ホロコーストサバイバー。イスラエルに渡って化学者。

f:id:palop:20190727233312j:plain
Rabbi David Kahane(1903-1998):英語版ウィキもある著名人。宗教指導者で哲学博士でホロコーストサバイバーで『Lvov Ghetto Diary』の著者。戦後はイスラエルへ。

f:id:palop:20190727233348j:plain
Inka Katz(1930-):検索してもあまり情報はないが、『ニュルンベルク合流』を読んだのでハーシュ・ラウターパクトの姪だってことは知っている。それによるとハーシュの妹ザビーナはマルセル・ゲルバードと結婚して一人娘インカを産む。生まれはリヴィウ近郊のŻółkiew。ジェノサイドの生き残り。

f:id:palop:20190727233426j:plain
Kurt Lewin(1890-1947):日本語版ウィキペディアもある著名人。Mogilno生まれ、1905年に一家でベルリンに移住、ということでリヴィウにはあまり縁がなさそう。

f:id:palop:20190727233531j:plain
Alexander Lizen(1911-2000):これまたイディッシュ語作家らしい。Alexander Lizenberg Aleksander Lizen Aleḳsander Lizenなどとも表記。ウィキペディアイディッシュ語版しかない。それによると、生まれはヴォルィーニ州で、第2次世界大戦後にリヴィウに移住してきたみたい。戦前リヴィウにいて、その後出て行った有名人が多いなか、逆は珍しい。

f:id:palop:20190727233606j:plain
Borys Orach(1921-2011):正式名Borys Hryhorovych Orach。「ユダヤ人のリヴィウを知る100」という文化保存運動をしている現役アクティビストだったみたい。ロシア語ができるならБорис Орачで検索してもっと情報があるだろうが、私の能力不足。

f:id:palop:20190727233646j:plain
Moyshe Shimel(1903-1942):ポーランド名Maurycy Szymelで検索したら、ドイツ語版とポーランド語版のウィキペディアがあった。詩人・ジャーナリスト。リヴィウ生まれ、同化ユダヤ人としてポーランド語の教育を受け、ポーランド語で詩を書く。1930年代になってイディッシュ語でも書くようになる。リヴィウ強制収容所で死亡。

f:id:palop:20190727233721j:plain
Jacob Shudrich:検索すると、Eliyahu Yones「Smoke in the Sand: The Jews of Lvov in the War Years 1939-1944」とDov Levin「The Lesser of Two Evils: Eastern European Jewry Under Soviet Rule, 1939-1941」という本の中にイディッシュ語の作家・詩人として出てくるから、そういう人なのだろう。

f:id:palop:20190727233816j:plain
Rabbi Joel Sirkes, the Bach(1561-1640):Joel Sirkesの名で英語版ウィキペディアもある著名人。ルブリンからクラクフ辺りで活躍した宗教家みたいだけど、リヴィウとの関連は定かでない。

f:id:palop:20190727233849j:plain
Lili Thau(1927-):別名Lili Chuwis Thau。著書に『Hidden』。Stanisławów(現イヴァノフランキフスク)生まれ、生後10か月でリヴィウへ。占領下のリヴィウで隠れて生き残り、戦後はイスラエルのハイファへ。

f:id:palop:20190727233930j:plain
Debora Vogel(1902-1942):英語版ウィキペディアもある著名なポーランドの哲学者・作家。Burshtynで生まれ、ウィーンに行き、第1次世界大戦後にリヴィウへ来た珍しいパターン。リヴィウのゲットーで殺される。

★★★

古きリヴィウの情報を翻訳で得るためには、平田達治、佐藤達彦、平野嘉彦からのヨーゼフ・ロートマゾッホのようなドイツ文学ルートしか思いつかなかったが、デボラ・フォーゲル、ブルーノ・シュルツスタニスワフ・レムのようなポーランド文学/イディッシュ語文学のルートがあったのかと今さら気付く。

リヴィウのエリア・スタディーズを専門にするなら、英語とドイツ語とロシア語とウクライナ語とポーランド語とイディッシュ語ヘブライ語くらいは出来ないとなかなか難しそう。グーグル翻訳様の進化に期待しよう。