パロップのブログ

TVドキュメンタリーの記録は終了しました

サカヲタ活動2017

 

当時のツイートをまとめるだけでブログ記事になるのでは疑惑を試してみよう。

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3月11日(土)サガン鳥栖×サンフレッチェ広島(ベアスタ)

フェリぺ・シウバはバルカンの切れたナイフことブルゾぽいのう。ナカノンのことだから話三分の一くらいに聞き流してて正解だった。

アンロペが入って左サイドに移動したブルゾは青山と連携してなかなかパスが繋がるようになった。というか、青山だけはブルゾを上手く操れる感あった。そばに寄って短いパスを交換させたらいいんだ。大木監督のクローズ方面に行くと幸せになれそうな気がする。

原川力の直接FK。思えばフェリペ・シウバの必要ないファールがきっかけだった。

試合前のマッシモ「ミキッチが持ったら必ず2人で挟め!」ハーフタイムのマッシモ「ミキッチは吉田一人で止められるから、サポートは必要ないぞ」みたいな感じだった。

マッシモのサガン鳥栖が私の愛する4-3-2-1のクリスマスツリー型ぽくて嬉しかった。守備が安定し流動性に欠けスコアレスドロー製造機といわれるクリスマスツリー型。それでもサガンはいつもの通りサンフのサイドの脇をついていっぱいチャンスを作ってた。

田川くんはデルピエロゾーンのごとく同じ角度から同じシュートを打ち続けていてこだわりを大切にする見込みある若者だった。ウィキみたら右利きになっているけど、どう考えても利き足は左ではなかろうか。

ボールの取られ方が悪くて不利な体勢でボールを追いかけてファールしてイエロー貰って…という過程が2007年を彷彿とさせるけど、工藤柴崎アンロペの三角形が機能するまで我慢するとしよう。工藤でかいね。柴崎も意外とでかい。あれなら一人削ってちびっ子を一人足すゆとりはある。宮吉がんばれ。

※今シーズンの今後をおおよそ暗示している内容で我ながら驚く。フェリペ・シウバの「良い時はレアンドロドミンゲス、悪い時はブルザノビッチ」は我ながら良い喩えではないかと。

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3月18日(土)サンフユース×前橋育英グローバルアリーナ

4番7番8番でもっとボールを動かして欲しいし、前が空いているときは自分で運んで欲しい。とはいえ、3年生の7番8番でボランチ固定されていると、安定感と楽しみしかない。

※4番が3バックの真ん中やってる里岡、7番川村、8番川井だったはず。

 

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5月13日(土)ジェフ千葉×Vファーレン長崎フクアリ

監督が解任される前に頭のおかしいサッカーを生で観ようと来たのに、全然解任されそうもないじゃないか!

サンフ94とアトレチコ95-96が三大フェイバリットな私にとって高木琢也エスナイデルが監督としてあいまみえるとか夢の劇場か!

※飛行機が遅れて後半からしか見られなかった。そして大雨。ジェフの良い所しか見られなかった試合だった。

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5月14日(日)FC東京×柏レイソル(味スタ)

※ツイートしていなかった。この試合の手塚に惚れたが、その後怪我をして残念。大谷の薫陶を受けて大切に育てられているなと。FCTはボロボロだったように見えて、前半の中村スーパーセーブがなければどっちに転がったかわからないのも事実。キーパー大事。

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7月1日(土)アビスパU18×サンフユース(FFC)

※点差ほどの実力は…というやつ。若者はいっぺん気持ちが切れるとなかなか難しい。8番川井がWB起用になっていたはず。ボランチに入った6番根角くんがクレバーとガツガツ兼ねててサンパイオぽかった(見た目も)。アビスパU18がプレミア残留して本当にありがたい福岡在住サンフユースヲタなのでした。

 

 

7月30日(日)ファジアーノ岡山×Vファーレン長崎シティライトスタジアム

パクヒョンジンがナイスクロスをあげて、増田がナイスセーブして、俺ニッコリ。

途中インした幸野シュートの名前読み上げ場内アナウンスで岡山人が「シュート!?」って感じにわいた。もっと有名にならんとね。

赤嶺と村上が試合中も試合後も話してたからベガルタの絆!と思って検索したらその村上じゃなかった。関東大学選抜時代からの知り合いとかだろうか。

値段の高いメインスタンドの客もガラが悪いのが良い意味でカンスタの雰囲気作りに一役買っている感ある。

今シーズン一番見ているクラブはなぜか長崎2試合で、俺が観た長崎はどっちもぼこぼこにされた。左MFの時の中村慶太は攻撃的で良さそうな選手だったが、高木琢也が3バックのミラーゲームを目指したのか、福田が下がって中村がWBになって、ぐぬぬとなった。

今日のファジアーノでたぶん唯一の初見選手だった塚川はサンフのジュニアユースだったのか。

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11月5日(日)アビスパ福岡×湘南ベルマーレレベスタ

風の子エウレーの使い方がなんとなくつかめたぞー

湘南が昇格決めてたから穏やかで良かったけど、アウェー指定にアビスパを応援するようにお願いされてた王国民を入れたのは微妙に失策だったような。

湘南サポの自軍選手評は面白かった。下田北斗は私が好きな左利きパサーのようだった。湘南にいたら闘えるゲームメーカーになれそう。

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1年に1回もビッグアーチに行かなかったのはおそらく10数年ぶりのような気がする。興行主が「うちのスタジアムはアクセスが不便ですよー。うちのスタジアムは試合が観辛いですよー」と連呼したのは、連呼しなければならない理由があったのも充分理解しているけれど、それでも異常事態だったなあと。2007年・第2節レイソル戦の感想をみればわかる通り、個人的にはミシャ式サッカーがそんなに好きではなかったので1試合くらいヨンソン監督の欧州スタンダードサッカーを現地で見れば良かったのだけれど、今年はなかなか気力がわかなかった。そういう年もある。

去年、山根を昇格させなかったのは後輩に明比/仙波/満田と更なる才能が控えていたからじゃないのかよ、どうなってんだよ。

フルシチョフ「質問したのは誰?」

TVドキュメンタリーのメモ代わりに。

 

ワシントンのナショナルプレスクラブでの記者会見

記者「こんな話があります。

共産党大会でスターリンの犯した罪をあなたが糾弾したとき、

聴衆の1人が無記名の質問状を提出したそうですね。

あなたは演説を中断し、質問状を読み上げました。

そこには『スターリン時代あなたは何をしていた?』とあった。

『質問者は誰だ』と聞いても名乗り出る者はいません。

そこであなたは言いました。

『これで私が何をしていたかわかったろう』と。

 この話をどう思いますか」

 

フルシチョフ「そんな話をでっちあげた人に狙いは何なのかとお聞きしたい。

私にバツの悪い思いをさせたいのでしょうか。

皆さんが笑っているのもそのためですか。

ロシアには『最後に笑う者が最もよく笑う』という格言があります。

こんな作り話をする人は必ず後悔することになります。

私は挑発に乗りませんしやり返そうとも思いません。

なぜなら最後は真実が勝つからです」

 

―『BS世界のドキュメンタリー』「フルシチョフ アメリカを行く」より

 

ある党集会でフルシチョフが演説した。若い活動家が遠くから野次をとばした。

「そりゃ、けっこうだ、ニキタ・セルゲイェヴィッチ。いま、あんたはスターリンの犯罪を暴露している。だけど、あのころ、あんたがたは、いったいどこにいたんだい」

フルシチョフは立ち上がり、威すように怒鳴りつける。

「いま質問したのはだれだ!」

会場は沈黙。フルシチョフはかさねて大声をはり上げる。

「これが最後だ。質問したのはだれだ!」

しばらく会場をにらみ回したあと、フルシチョフはおだやかに言った。

「同志諸君、きみたちは、われわれが当時どこにいたのか知りたがっている。ここに、答えがある。ここん、いまきみたちがいるところにだ」

 

―平井吉夫編『スターリンジョーク』p.142より

 

第22回党大会で、スターリン批判を行ったフルシチョフは、その後の作家同盟の集会でもスターリンの「個人崇拝」と「血の粛清」について糾弾した。

演説の最後に、なにか質問はないかとフルシチョフが言うと、後ろの方からおずおずと声がした。

「では、お尋ねしますが、その時、あなたは何をしていたのでしょうか?」

フルシチョフは真っ赤になってテーブルを叩いた。

「誰だ、今の発言は?」

会場はシーンとなり、誰も名乗り出なかった。フルシチョフはさらに大声を張り上げて怒鳴った。

「質問したのは誰だ!」

しばらくの沈黙の後、フルシチョフは一同をジロリと眺め回して言った。

「そう、君たちと同様こんなふうに沈黙していたのだよ。」

 

共産圏ジョーク より

http://www.geocities.jp/asamayamanobore/joke/rosia-soren/rosia1-50.html

 

その彼がアメリカで記者会見をしたことがある。予めリストにして提出されていた最初の質問が読み上げられたのだが、これがなかなか辛らつなものだった。「あなたは、激しくスターリンを批判した。しかし、あなたはスターリンの親しい後輩だったではないか。スターリンの存命中、あなたは一体何をしていたのか」というのだ。

フルシチョフは怒った。「だれがその質問をしたんだ!」。普段は口やかましい記者たちが、珍しく沈黙した。シーンとなった会場を見渡し、彼が再び吼える。「その質問を書いたのは、一体だれだと聞いているんだ!」。長い静寂のときが流れた。そこでやおら、フルシチョフはこう言った。「私が当時やったのは、これです。今のような沈黙です」。

 

仲森智博「本当のことを言う」『日経テクノロジーonline』より

http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090115/164093/?P=4

 

1つ目はドキュメンタリーで放送されたくらいだからさすがに事実だろう。2つ目3つ目はよく知られたアネクドートのバージョン違い。会場が作家同盟だったり党集会だったり。4つ目は1つ目の事実と2つ目3つ目のアネクドートが混ざった感じ。伝言ゲームの果てといった感じ。

個人的な推測としては、先にアネクドートがあって、それを仕入れた米国新聞社のモスクワ特派員がワシントンでの記者会見で「こんなジョークを知っていますか?」という軽いノリで質問したら、フルシチョフがマジレスしてしまったのかなあと。そもそもアネクドートというのは「あいつなら言いそう」「そういうことありそう」というギリギリの線を創作するのがキモというか腕前というか。その意味では出来が良い。

ただ2つ目3つ目の妙に具体的なバージョン違いがあるのは、実は本当になったことなのかも。本当の事をモスクワ特派員が仕入れてワシントンで質問したら、フルシチョフが顔を真っ赤にして否定したと。本当にあった事件がひそひそと伝わってアネクドートに変形し、特派員の耳にも届いたと考えるのがもっとも自然か。

或いは、ワシントンでの記者の質問こそ仕入れたアネクドートに見せかけたオリジナルのソ連批判だったのかもしれない。現実は批判に対してフルシチョフがマジギレ。それが4つ目のようなフルシチョフジョークでうまくかわした前半部分のみの話に改変され、さらにソ連へ逆輸入されて場所をソ連党集会に変えてアネクドートになったとか。そりゃないか。

以上、ワシントンでの質問とアネクドートとどっちが先だったのかなというどうでもいい疑問でした。

難民とハンガリーと私と時々メルケル

9月の初めくらいから何か書いておかないといけないとは思っていたが、自分の言いたい事をうまく伝わるように書ける気が全然しないというか、そもそも何を言いたいのかも自分のなかで整理されていなくて、放置していたのだけど、あまり放置しておくとタイミングを逃すのが常なので、なんとか今のうちに書いておこうと思う。

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1993年12月19日に放送された『NHKスペシャル』「ヨーロッパ・ピクニック計画~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」を見てピクニック計画にかぶれた当時の私は、計画5周年の翌年8月19日にはピクニックの現場であるハンガリーの町ショプロンにいる事にした。

実際にはピンポイントでショプロンに向かっても面白くないので、ウィーンから鉄道でリュブリャナスロベニア)→ザグレブクロアチア)→ペチ(ハンガリー)→ブダペスト→ショプロン→ウィーンと移動した。

で、1994年8月19日、ショプロンで特に何かのイベントには遭遇しなかった。おそらくは実際に何の記念イベントもやっていなかったわけではなく、今みたいにネットに情報があふれているわけでもない時代に、情弱でコミュ障の外国人が現地に行っても何も見つけられなかったというのが正しい。仮に町はずれの国境で何らかのイベントをやることを察知していても、たぶんバスやタクシーにびびってたどり着けなかっただろう。

(ただ、計画に関与した日本人女性・糸見偲氏のエッセーを読むと、1995年の国境は何もない野ざらしで、それを見た糸見氏が記念公園の設立を思いついたそうだから、1994年だとそれこそハンガリー人からもドイツ人からも忘れ去られた計画だった可能性も高いと言い訳しておく)

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そんな私の薄い旅行体験だけど、そんな私でも、中東からの難民がクロアチアセルビア方面からハンガリーに向かって大平原を歩いている映像や、ハンガリーとオーストリアの国境で止められている映像を見ると、やっぱり何か思うところがある。その思う何かがまあうまく言えないんだけど。とりあえずは「当時世界に響き渡っていた金持ちとして信用ある日本国のパスポートによって軽々と自分が越えた国境を越えられない人がいるんだ」みたいな感じ。

ここで唐突にメルケルの話。

無難で知られるメルケルに、感情的になったメルケル

一般にドイツが難民を受け入れるのはナチスの経験がうんたらかんたらと言われるけど、少なくともメルケルに関しては違うんじゃないかと思う。ご承知の通り、メルケル東ドイツ人。こないだメルケルの伝記らしき本をざっと読んだけど、基本的には「東ドイツにも良いところはあったのに…、西ドイツに吸収合併されたのは残念」とか言わない人。国境が開いて、ドイツが統一されて良かったと思っている人。研究者として西ドイツへ出るくらいの自由はあった身分だったけど、東ドイツの体制は滅んで当然と考えている人。ここからは推測だけど、本人の中身は30代半ばまで過ごした東ドイツのメンタリティで出来ているのではなかろうかと思う。統一ドイツの政治家として成功するために、旧西ドイツ由来の思考作法と振る舞い方を必死で身につけてはきたけれど。そんな隠れ東ドイツ人(東ドイツから難民として西ドイツに来た人)のメルケルハンガリー・オーストリア国境の難民のあの映像を見て、感情的になるのはむしろ当然。ピクニック計画を思い出さずにはいられないもの。あの時ハンガリーが国境を開けて、東ドイツ〈難民〉を西ドイツへ行かせてくれなかったら、ベルリンの壁も崩壊してなかったかもしれないし、ドイツも統一されていなかったかもしれない。「いや、いずれ近いうちに東側の社会主義体制は崩壊していたよ」という意見もあるだろうが、あの日あの時あの場所で国境が開いていなければ、その後どうなったかなんて誰にも分からないし、メルケルの運命だってどうなってたなんて分からない。1990年元日の新聞を開いてごらんなさい。偉い先生が「まずは東西通貨同盟を」「国家連合を形成して10年後をめどに対等合併か」とかしたり顔で書いていた。実際、冷戦が終わって25年経つのに、1991年には世界選手権に南北合同代表とか送っていたのに、今も南北分裂したままの民族国家だってある。そう、物事にはタイミングがある。難民には「いずれ、そのうち、受け入れ準備が整ったら…」なんて言っていけない。いま行動しないと。メルケルにはそんな思いに駆られる動機があった。

(このメルケルパートは後から思いついたので前後の文章とは脈絡がないけれど、私の自分語りよりも実があるだろうと思って残す)

 

強い国家の作り方 欧州に君臨する女帝メルケルの世界戦略

強い国家の作り方 欧州に君臨する女帝メルケルの世界戦略

 

いま働いているグループホームには北朝鮮から引き揚げてきた人が2人いたこともあって、私は引揚者のドキュメンタリーを割とチェックしている方だと思う。そもそもは旧東欧ヲタだったから、オリンピック開いてた国が10年後には大量の難民が発生し、オリンピックスタジアムは墓地、なんて事実も知っている。だけど、まあ自分が難民になる想像は流石に出来ない。想像力の限界。だから「いつ自分が難民になるかもわからない。だからこそ難民を引き受けるべきだ」みたいな論理展開は出来ない。まあ、このまま日本の経済力が下降して、国際信用力もなくなって、日本国のパスポートを見せても帰りのチケットとか滞在ホテルとかしつこく聞かれる未来は想像できなくもないが。

私は報道写真=静止画像というのは撮影者や編集者の強烈な意思を反映しているプロパガンダだと思っている(動画だともう少し隙というか無駄な情報がどうしても入る)。だから、日頃から静止画像を見ても心を動かされないようにしようと心掛けているし、実際例の溺死した赤ん坊の報道写真を見てもそんなに心動かされることはなかった。下衆な言い方をすれば「(類似の出来事は何か月も前からあったのに)この画像がいま突然世界中を駆け巡っているのは誰がどんな意図をもってやっているのかなあ」みたいな冷笑主義者的反応をした。

そんな私が、動画とはいえ中欧を行く難民の姿を見ると何かを感じずにはいられなかったというのは何とも不思議な体験だった。体験と結びついた記憶というのは何かを呼び覚ますものだなと。思い入れというのは判断を誤らせたりするものだなと。メルケルさんの気持ちは分かるよと。たぶんそういう事をこの文章で言いたかったのではなかろうかと思う。

余談だが、今回この文章を書こうと旅行の事を思い出すため、久しぶりに自分史史料の箱を開けてみたらびっくりした。チェコ・スロバキアポーランドハンガリーの大使館にビザの申請をする封書が残っていた。そう、あの頃はビザが必要だった! すっかり忘れていた。「軽々と国境を越えられる日本国のパスポート」じゃねえよ。記憶の捏造だよ。うん、思い出した、大変だった。申請書を送ってもらい、記入した申請書とパスポートを送り、ビザ貼ったパスポートを受け取り、を4カ国分郵送でやった地方人。2か月前くらいから始めて出発までに全部揃うか不安で不安で。旅慣れた人だったら隣国でビザ申請して1日で取れるとかいう話もあったけど、そこまでギャンブルする勇気はなかった。